2014年11月29日
三井三郎助別荘のこと
「軽井沢の日本人別荘第1号は八田裕二郎別荘。では、「第2号の日本人別荘は?」それは明治32年建築の三井三郎助別荘です。」
と、軽井沢新聞が書いてしまったそうです。
鹿島組の二代目鹿島岩蔵が六軒別荘を作り、そのうちの一つを自分の別荘にしたと言われており、少なくとも六軒別荘のうちいずれかは、鉄道が開通する1893年(明治26年)か翌年には完成していたでしょうから、第二号が三井別荘と言うことはないのではないかと思います。貸し別荘は日本人別荘とは言えないので除き、本人の別荘が明治32年以降に建築されたものでなければ、少なくとも三井別荘が第二号にはなりません。明治32年説については、鹿島建設が否定していますので、第二号が三井別荘と断言してしまうと、鹿島建設さんの主張を否定することになります。
なお、佐藤孝一著「かるゐざわ」の記載によると明治末の別荘分布の概況は下記のようだったそうですが、ここにいう鹿島岩蔵別荘が六軒別荘のことを示しているのかどうかは不明です。お金持ちは別荘が一つとは限らないし、気に入らなくてまた別のところに建てたりしますから。
<東区>(East Part)
宿の東、中山道より南、諏訪道より東の山麓に開けた草野一帯で、展望の開けたところである。森裏、釜の沢、桜の沢、丸小山、今道沢に別荘があり、21年5月に建てられたショー氏の別荘は大塚山の頂上にあって、浅間山の眺めが素晴らしかったといわれている。
また、泉源亭は31年、子爵末松謙澄が建てた別荘で、川越石川に臨み、山中の清水の流れを邸内に引き入れている。桜の沢には35年に宿場の通りにあった万平ホテルが移転した。2万坪の広大な敷地に洋室22をもつ洋風建築であった。
<北区>(North Part)
碓氷旧道の北から、草津新道の東、宿の北部一帯をさし、一ノ字山、愛宕山中腹と麓にあたる。当時の愛宕山には大きな木がなく眺望のよい別荘地であった。高瀬沢、愛宕道、吉ヶ沢に別荘が点在していた。とくに英国大使館別荘は、二手橋の東にあり、5万坪の敷地にはモミの大木がしげり、自然を生かした深い森の中にあった。愛宕山の西南には三井家の別荘があり、庭の西隅に日本女子大学の夏期寮「三泉寮」が建てられていた。
宿の東端にはつるや旅館があり、その裏には「水車小屋の三軒別荘」といわれた外国人による新築別荘が並んでいた。
<西区>(West Part)
草津新道の西、旧中山道の北の平坦地で、長尾の原、西山、深山から離山、さらには北へのびて三笠と呼ばれる地域にあたる。江木衷、新渡戸稲造、二条公爵、川田龍吉、鹿島岩蔵などの日本人別荘が多く、ほかの3地区に比べると新しい地域といえる。
北にはなれて、明治38年に落成した木骨様式の三笠ホテルが人々の目を引いていた。また、離山の東山麓で雲場池近くにも4軒ほどの外人別荘があり、長尾の原一帯は広々とした草野原であった。
<南区>(South Part)
町の南部一帯の草野で東は矢ヶ崎より西の地域で、森前、上森、下森、森裏、押出橋の別荘地をさす。平坦の広い原であるが別荘は宿に近い地域に建てられていた。日本人で初めて別荘を建てた八田裕二郎、佐々木政吉などの別荘があった。
<離山>軽井沢の西離山の麓に雨宮邸、鉄道線路の南の林の安価に桂太郎の別荘があった。
<追分>追分宿の南に鉄道院の野村龍太郎、坪井清次郎の別荘があった。
大きなマップで表示
R.L WINSTONROD.CO Boron3x 9フィート #8
ナチュラム価格71000円(税込)
ナチュラム価格67,619円(税込73,029円)
●重量:99g
●4ピース
●ファストアクション
●オーバーフェルール
●ハンドル:フルウェル
●リールシート:B(別の写真にてご覧下さい)
●専用グラファイトロッドチューブ・クロスバッグ付属
●生涯保証付き
と、軽井沢新聞が書いてしまったそうです。
鹿島組の二代目鹿島岩蔵が六軒別荘を作り、そのうちの一つを自分の別荘にしたと言われており、少なくとも六軒別荘のうちいずれかは、鉄道が開通する1893年(明治26年)か翌年には完成していたでしょうから、第二号が三井別荘と言うことはないのではないかと思います。貸し別荘は日本人別荘とは言えないので除き、本人の別荘が明治32年以降に建築されたものでなければ、少なくとも三井別荘が第二号にはなりません。明治32年説については、鹿島建設が否定していますので、第二号が三井別荘と断言してしまうと、鹿島建設さんの主張を否定することになります。
なお、佐藤孝一著「かるゐざわ」の記載によると明治末の別荘分布の概況は下記のようだったそうですが、ここにいう鹿島岩蔵別荘が六軒別荘のことを示しているのかどうかは不明です。お金持ちは別荘が一つとは限らないし、気に入らなくてまた別のところに建てたりしますから。
<東区>(East Part)
宿の東、中山道より南、諏訪道より東の山麓に開けた草野一帯で、展望の開けたところである。森裏、釜の沢、桜の沢、丸小山、今道沢に別荘があり、21年5月に建てられたショー氏の別荘は大塚山の頂上にあって、浅間山の眺めが素晴らしかったといわれている。
また、泉源亭は31年、子爵末松謙澄が建てた別荘で、川越石川に臨み、山中の清水の流れを邸内に引き入れている。桜の沢には35年に宿場の通りにあった万平ホテルが移転した。2万坪の広大な敷地に洋室22をもつ洋風建築であった。
<北区>(North Part)
碓氷旧道の北から、草津新道の東、宿の北部一帯をさし、一ノ字山、愛宕山中腹と麓にあたる。当時の愛宕山には大きな木がなく眺望のよい別荘地であった。高瀬沢、愛宕道、吉ヶ沢に別荘が点在していた。とくに英国大使館別荘は、二手橋の東にあり、5万坪の敷地にはモミの大木がしげり、自然を生かした深い森の中にあった。愛宕山の西南には三井家の別荘があり、庭の西隅に日本女子大学の夏期寮「三泉寮」が建てられていた。
宿の東端にはつるや旅館があり、その裏には「水車小屋の三軒別荘」といわれた外国人による新築別荘が並んでいた。
<西区>(West Part)
草津新道の西、旧中山道の北の平坦地で、長尾の原、西山、深山から離山、さらには北へのびて三笠と呼ばれる地域にあたる。江木衷、新渡戸稲造、二条公爵、川田龍吉、鹿島岩蔵などの日本人別荘が多く、ほかの3地区に比べると新しい地域といえる。
北にはなれて、明治38年に落成した木骨様式の三笠ホテルが人々の目を引いていた。また、離山の東山麓で雲場池近くにも4軒ほどの外人別荘があり、長尾の原一帯は広々とした草野原であった。
<南区>(South Part)
町の南部一帯の草野で東は矢ヶ崎より西の地域で、森前、上森、下森、森裏、押出橋の別荘地をさす。平坦の広い原であるが別荘は宿に近い地域に建てられていた。日本人で初めて別荘を建てた八田裕二郎、佐々木政吉などの別荘があった。
<離山>軽井沢の西離山の麓に雨宮邸、鉄道線路の南の林の安価に桂太郎の別荘があった。
<追分>追分宿の南に鉄道院の野村龍太郎、坪井清次郎の別荘があった。
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ナチュラム価格67,619円(税込73,029円)
●重量:99g
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●ファストアクション
●オーバーフェルール
●ハンドル:フルウェル
●リールシート:B(別の写真にてご覧下さい)
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Posted by おサル at 15:38│Comments(3)
この記事へのコメント
杏林堂の佐々木政吉先生も明治24年に軽井沢別荘を設けたそうですから、八田別荘よりも早いですね。
Posted by あん at 2016年11月16日 06:21
コメント有難うございます。
佐々木先生のことはお聞きしています。
髭を生やして通りを闊歩されていたとか。
鉄道技師の本間英一郎や鳥居義処、雨宮敬次郎なども先なのではないですか?雨宮は本宅かもしれませんが。
渡辺平太左衛門別荘も早いのではという話もありました。
http://morinohito.i-ra.jp/e987575.html
佐々木先生のことはお聞きしています。
髭を生やして通りを闊歩されていたとか。
鉄道技師の本間英一郎や鳥居義処、雨宮敬次郎なども先なのではないですか?雨宮は本宅かもしれませんが。
渡辺平太左衛門別荘も早いのではという話もありました。
http://morinohito.i-ra.jp/e987575.html
Posted by 。。 at 2016年12月03日 12:44
男爵イモで有名な川田龍吉が別荘を建てたのは農場を開いた明治35年なのか、それ以前からなのか?
どの辺りだったのか?
どの辺りだったのか?
Posted by 。。 at 2016年12月07日 08:48